s45.8.19朝
97節
はたして、あたくしたちの信心の姿というか、神に向かう、姿勢というもの、が、又は神様に向かって御祈念をさせて頂く、わたくしどもの、えー、御祈念の内容というものが、えー、このような、あー、ご理解をくださっておるが、そのご理解に、いー、ピタッとあうような祈念になり、日常の信心がでけておるだろうか。なかなかむつかしいこと。物音や者声を聞くようでは神に一心は届かぬ。してみると、私どもの願い、いのりというものは、神様にはいつも届いていない事になる。ね、拝ましていただいていましても、うん、物音を、を、聞くようではとおっしゃるが、人がずっといびきをかいて御祈念をしておっても、どうも邪魔になって、ご祈念ができないという、いわゆる、物音を聞くようではとおっしゃる、物音が聞こえ続けておる。そのくらいな、迫力しかない私どもの信心。よく聞くですけれども、長年、信心を(???)言うて頂いておりますけれども、なーんにも、ただお参りをする、拝むばかりで、信心も分かりもせず、本当にお恥ずかしいしだいですと、いうようなことを言われますが、ほんとうにわたくしはですね、本当にお恥ずかしいしだいですという、そのお恥ずかしいという事がです、本当に恥ずかしいという思いであったらね、必ず神様に一心は届くと。ね。長年信心をさせていただいておりますけれども、ね、信心も出来ません。お話はもう十分聞きよりますけれども、なかなかそれが、身につきません。おかげもよういただきません。まー、おかげをよういただきませんということは、おかげもよう頂ききりません。ほんとうにお恥ずかしいしだい。ほんとうにお恥ずかしいしだいという事に、なったらですね、その本当にお恥ずかしい、はずかしいと、いうなら、まともに神様の顔は見られんというくらいにです、本当にはずかしい、たとえばそのくらいな初心な、信心がでけたら、絶対におかげを頂くと思うですね。ところが口では、本当にお恥ずかしいしだいですといいながら、一つもお恥ずかしいと思うてない。ね。そこにおかげの頂元があるのではないでしょうか。いうならば、教えは頂きよる。けれども光にもならなければ、おかげにもならん。ね。
先日もご理解のなかに頂きましたね。金光教と。金という字を金という字だから、まーおかげと、まー頂く。光という字は光と書いてあるから、お徳といただく。教と言う字は教えという字ですから、教えといただく。いうなら、教えを頂いて、光、力を、ひかりをいただき徳を受けて、そしておかげを頂く。金光教と。ね。そいで、合楽ではどこんところがかけておるかというと、まー教えは、かんで含めるように、まーいわば徹底して頂いておるのにもかかわらず、光にもなってはいない、おかげにもなってはいない、金にもなっていなければ、徳にもなっていないとするなら、ね、これは本当にむつかしいことなんです。教え。いや金光教の教の字ですね。教えは頂きよる。ですから、結局頂きよるだけで、いうなら、耳が肥えるだけで、心が一つも肥えよらんということ。血に肉になっていきよらんということ。恥ずかしい事だなー。と本当に、恥ずかしい事が、ね、だんだん恥ずかしいだけではなくて、あいすまんということになり、日夜くようにして、おかげを頂かせてもろうて、噛んで含めるように、おかげをいただく、道というか、おかげを頂いていくこつをというか、こう教えていただきながら、その教えが、身についていないということは、いかに、それが、散漫な事になっておるのか。ほんとうに恥ずかしい限りである。人んどんいわれた話じゃない。もう十年信心しよります。もう二十年信心しよります。と、たとえば人んどんいわれた話じゃないというほどしにです。あたくしは、たとえ出来なくても、ほんとうにその恥ずかしさというものがです。口で、いうなら、言うておるようにです。ね、恥ずかしい事だなと、ほんとに私思えたらねー、出けとらんでもおかげをうけると。ね、本気で恥ずかしいと思うておる、その初心な心に、神様は感をましますと私は思う。
ね、神を拝むものは神前に向こうてからは、例え槍先で付かれても、後ろへ振り向く事はならんぞ。と。御祈念の姿勢。いわゆる神様に向かう姿勢というものはね、このようなものでなからなきゃならん。だからあたしはここんところを、勿論御祈念でもそうですけれども、なら、御祈念そのものが信心ですから、わたくし共日常生活の上においてもです、ね、神様に向かう姿勢というものが、そのように、ある意味において厳しいものでなからなければならない。神様へ向かう姿勢。ね、物音や者声を聞くようでは、神に一心は届かぬとこうおっしゃる。ところが、実際はご祈念をしながら、隣の人のいびきが聞こえてから、もう、どんこん御祈念がでけん。ならあたくしどもでも、(?のりと座から)こんなここまでもこんなに離れておるけれども、やっぱり、えー、もう、四時の御祈念の時には、もう後ろから、もう、眠いとがあたりまえごと思うてから、もう、堂々といびきをかいておる人がある。それが聞こえておるということが実は恥ずかしい事である。今日は誰かいびきかきよったのーっち、言うときには実を言うたら、あたくし自身がです、はーやっぱ、あのいびきが聞こえよっただなと。言うたらばです、教祖様はそのような、厳しく教えておられる。物音どん聞くごたることでは、神に一心は届かんぞとおっしゃておられる。ところが事実は物音が聞こえておる。本とに、たとえば、たまたま、一心不乱と、これが一心不乱だろうと思うときには、本とに物音が聞こえん。そのくらいな、あたくしは、祈念力というかねー、神様へ向く祈念力を、が、必要であると同時にです、ね、これをわたくし共の一日の信心生活というものを振り返ってみてです、ね、人から、ちょっとどうか言われると、それに、グラッと迷うてしまう。いうなら、後ろからちょっと槍先でつかれたら、もうそれで後ろを振り向いておるようなものではなかろうか。ね、物音や者声を聞くようでは、神に一心は届かぬ。
あの人この頃金光様の信心をしござるげなが、ね、ち、ちーっとぼうけてござるとじゃなかじゃろか。と。いうようにね。隣近所のそういうことを耳にする。ね、なるほど、ぼうけるぐらいに一生懸命なっとる。ね。そういうことがです。耳にはいてきて、信心がぐらつくような事では、そのようなことが耳に入ってくるようなことでは、ね、あたくしはまーだ神に一心は届かんというふうにも頂かなければならない。ね、はー自分も、いうなら、信心にぼうけるといわれるほどしにです、大分熱心になってきた証拠だと思うて、お礼を申し上げるような、わたしは、気持ちが必要ではなかろうか。
先日から、昨日一昨日、田主丸の小野先生のお母さん、まー、夜の御祈念にお参りしてみえられた。「今日は、親先生に改めて御礼を申させていただきます」というて、お礼の御届けがあった。この頃子供達も、まー、熱心にお参りさせてもらうが、孫達が熱心にお参りをさせてもらう。自分ところの内孫である、(?いうやく?)ラサールにいきよります、こちらへ帰ってきておる間は、お父さんと一緒に毎朝参ってくる。
それから、西見病院の、おー、長男、西見君なんかももう、おー、ふっとした事がご縁で、もう、ご両親は、信心は、ここにお参りしてくるごたることはないのですけれども、おー、一生懸命、信心を、毎朝、お参りして参ってくる。それであまりにその、一生懸命合楽通いをして参ってくるもんですから、かいって、ご両親のほうが心配になってきた。いうならば、学生の分際で、まーだ浪人の分際で、うーん、金光様金光様ばっかり言うて。というのである。
先日も、田主丸の小野先生のところ、(?おー、かないの?)里になりますから、みんなあそこで集まって。孫達もたくさん参ってきて(?おるちゅわけ?)ところがね、信心のない子供達が、いわゆるご先祖様を拝むのは、もう拝みよるとじゃない。お供え物(?のみかんを?)拝みながら朝の(?おまつりに?)ものいうたりしておる。ところが、ひではると、西見の長男だけは、もうあたくしの後ろから見てから、涙がこぼれましたっち言うて、一所懸命ご神前で拝んでおるから。ね、そうして、まー、親戚中でいろいろ非難もあるけれども、その非難のあとにです、もうそりゃ、先生も、堂々と親先生がおっしゃるような話をみんなにした。っち。それを聞いておられたおじさんが後から、ね、あれはあんたたちが、どーも心配することはいらん。と、あれだけのものば頂いていきよるから、とても、あれでいいんだ。というてその、言われたと。もうわたくしはそれを聞かせてもろうてから、ほんとうに、あたくしぐらいな者の信心が、子供に伝わり、孫達にもです、このように伝わっていきよるとおもうたら、ほんっと、お礼参拝をしておらりゃなおれんというてから、お礼参拝してみえた。ね、人の言う事やら、もう、ぜんぜん、もう、聞こえておらんわけです。西見君の場合は。ね、いわゆる、信心の教えが、身になり血肉になっていきよる。それも、不思議な事に、どうしてこの頃あげん変わったじゃろかっちいうごと、その、おー、本人には言わんけれどもね、そのお母さんが、おばあちゃんに言われる。もう、いままではもう、(?た、)まーその言う事を聞かなかった子供がです、もうこちらが言う事いらん。もうあれならですね、もういわれんちゃけん。おまえ、合楽に合楽にとお参りしても、ね、いわゆる、生活の上に現れていくという事。そしてから思う事はね、あの人がお参りをしてくれておるから、これはおかげじゃろう、と思うちゅうて、お母さんが話される。
突付かれて、後ろを振り向くだんじゃなか。いよいよ、邁進して、自分の頂いていきよる信心を、堂々として、いうなら、おばあちゃん、おじい、その、おじさんたち、おばさんたちを前にしてから、はなす。そして、おばあちゃんに言う。そして先生、あたくしにこういうこと言うんです。「おばあちゃん」っち。「あーた、吉井に参ったり、田主丸に参ったりそげなことじゃ、おかげがならん。もうう合楽と一心と定めなさい」っちいうて、その申しましたっち。もう言われてみてから、(?先生、なーんでございましょうか?)孫が言うとおりした方がいいでしょうか?っち。て言うて言われるんですよ。大体は、吉井の御信者さんなんです。おばあちゃんが。現在の幼稚園を経営しておられる、のも、先代のおっしゃるごつ。先生の、おー、御神夢を頂いて、頂いて始めたもの。だからご恩を忘れちゃならんと思うて、やはり月に何回かお参りされる。というて、んなら、田主丸の教会はもうほんな自分とこの前にある。ですから、まー、毎日お参りは田主丸です。まー特別のお願いがあるときは、ここにお参りをされるといったような、御信心なんです。小野先生はそうじゃないですね。毎日あのようにして、日参してまいられます。これこそ毎日、日参されます。ね、
「おばあちゃん、あーた、あちらにまいったっちゃ、こちらにまいったっちゃ、おかげにならん。合楽に一心に定めなさい」っちいうてから、孫が申しましたっち言うて、まーおごられてから、嬉しかったというのです。孫に。
それはやっぱり、そんなわけには、あなたの場合にはまいりません。それはやっぱり、ご恩を忘れんために、前の教会にも、お参りなっせて、いろいろおられる。近所は金光様の、いわば、あー、看板をかかげておられりゃ、金光様の信心が頂いておるのもが、やっぱり、お参りするのは当たり前。ね、お願いがあるときには、やっぱり、こうしてお参りになって、まー、それでいいんじゃないでしょうか。と。まー、申しましたけれども、実を言うたら、西見君が言うておるとおりのことなんですけれどね、まー、そういうわけにもまいりません。もう、お年寄りですから。(?まー、迷わんで信心が続けられるように?)申しました事ですけれどもです。もういうならば、分かるところがわかっていきよるということを、おばあちゃんが喜んでおられます。ね、若い(?じかくのあばあいは?)もう、純粋ですからね。純真ですから。ところが私どもの場合はそうではない。やはりなんか、難儀な事があると、一心がたつようであるけれども、もう、ちょっと、(?こしか)えー、楽になりますと、もう腰掛ける。そしてそこに、自分なりの理屈をつけては、それで、に、甘んじておるといったような、ことではね、やはりいけない。
これは御祈念の、いわば、御祈念をさせていただくことに対する、厳しい、教えでありますと同時にです、これは、神を拝むものはと、拍手して、神前に向こうてからはと、いうことは、ね、信心するものはということにもなると思う、ね、拍手してということはです、もうあたくしは金光様の御信心に一本に決めましたと、いうような腹を決めてからはということ、ね、からは、たとえどのような事があっても、槍先でつかれるような事があっても、ね、妥協してはならんぞと。(?ちゅーしく、もし、命をとられるというようなことであってもです?)自分の信ずる事に邁進でけれるというほどしのことを、ここには解いておられると思う。ね。
キリスト教の、おー、信心が、あー、禁止になりました時代がありましたですね。それで、えー、隠れて拝むものを、まー、みんな思い罰を受ける。そこでその、おーキリストの(じょうをうった?)踏み絵というもの作って、それを、おー、ね、「どうもあれは、キリスト教の信心をしておるごたるから、」ね、調べる、一つの手立てとしてですね、それを踏ませる。それを平気で踏むのは、まー、キリスト教の信心を、まー、しとらんと、まー、みなす。踏み切らないものは、信心を頂いておるんだと、いうので、思い罰を、もう、思い罰というよりも、処刑、その、殺されたんですからねー。そういうことであてもです、決して踏み絵を踏まなかったという信者がたくさんあったのです。ね、自分の拝ましていただいておる、キリスト教の、いわゆる教組ですかねー、キリストの、どうしたならこの絵を信者の自分が踏む事が出来ようかというのであります。ね、よしこれを踏まなければ、殺されるというなら、殺されてもかまわん。ね、賛美歌を歌いながら、キリストの下へ、衝天していく事を喜びとして、刑をうけていったという。歴史書に残っておる話なんです。
ね、私が、こ、この、97節というのは、そのくらいに厳しいもんだと思いますね。これをよくよく頂きますと。たとえば、槍先でつかれるような事があっても、後ろは振り向いてはならんとおっしゃておられる。ね、
そこでですよ、そういうものであると、たとえばあたくしがですね、三代金光様なら三代金光様のお写真を踏まなければ殺されるちゅーなら、あたしは踏むでしょうなー。やっぱり。命のほうが惜しい。そしてそこは、あたしの心はちゃんと、こ、金光様がご承知だからというような言い訳をするでしょうねー。もう実に恥ずかしい事でしょうが。はー、金光様の先生、なんとかかんとかと言われながらです、ね、いよいよ、命をとられるといやー、金光様のお写真でも平気で踏む私なのです。もう実に、恥ずかしい恥ずかしいことなのです。今日は私は、ここのところからね、こういう厳しい、こういう信心のしつけをしてあってくださるにもかかわらず、私どもの場合はどうなのか、ほんとうに恥ずかしい限りであると。ね、その恥ずかしいというものが本当なものになってきて、ほんとに、恥ずかしいという事が分かったら、ね、そこにわたくしは、初心な心がうまれる。ね、恥ずかしい次第でありますと、神様の前に、あー、顔をそむける、る、におられないくらいな、いわば羞恥心というものを、わたくし共が持っておるならば、ね、この神様は、それこそ、その初心な心に念じて、おかげを下さると思いますね。ところが、長年信心しよりますけれども、教えは頂きよりますけれども、光にもなっておりません。金にもなっておりません。いわゆる、おかげもいただききっとりません。徳にもなっておりませんと、恥ずかしい事です、と、口では言いながら、ひとつも恥ずかしいと思うとらんから、このような状態だと、自分の信心を厳しく、私は思うて見る時です。ね、あたくし、今日は皆様、ほんとっに、昨日のお月並み祭でも申しましたように、いよいよ明日は、年に一度の祈願の御大祭。今月は願い月とも言われる。それこそ願って願って、ほんとに、えー、ね、願いの、おー、いわゆる、うー、ご祈念をです、マー捧げさせていただくわけでございますけれども、願う前にまず、わたくしはお詫びをする、許されるところを許されて、願いにかからなければならない。として、あたくしは、あの台風以来、ね、ほんとにあたくしの祈りが足りなかった。あたくしが散漫な、あー、いわば甘く見ておった。それが、このような大変な、あちらこちらに被害が出るほどしの、この地方でもです、でるようなことになったことを、あたくしはもう本当に、恥ずかしい事だと思う。あいすまんことだと思うて、以来、あたくしは、お詫びに、まーいうならば徹しさせて頂いて、ね、許されたという気持ちを頂くまではです、頂いてから、明日のお祭りを奉仕させていただこうという風に、皆さんに申しました。ね、詫びるところを詫びさせてもろうて、ね、許されて、願うところを願わなければならない。
それにもう一つ、あたくしは今日は、詫びるということだけではなして、ね、恥ずかしい。人に言うならば、人に、こうして、お話の一つもさせていただきよるほどしの、おかげを頂きながら、なら、おまえ自身はどうなのかと、神様に言われたらです、それこそ、穴でもありゃ、入りたいほどしの私だと。昔、キリスト教の信者がたはです、ね、この絵を踏めない。こいを踏まんならんごたんなら、死んだほうがいいと、いうくらいに、一念を燃やされたという事なのにです、わたくしはどうじゃろか、もしそういうことを、私の前に出されたら、金光様のこの写真を踏まなかったら、お前は殺されるぞというなら、おそらく私は踏むだろうというほどしの、ものしかでけていないわたくし。なんと、恥ずかしい事であろうかと。そのことをです、詫びる。ね、純真な気持ちで詫びる。素直な心で、ね、このくらいのわたくしである事を、神様に詫びる、いわば心。ね、羞恥心。恥ずかしいという思いでいっぱいです。ね、姿形にある、なにかにそこに現してです、ね、本当に恥ずかしい事ですと、口だけではなてく、心から、それが思えれる、おかげを頂くときにです、ね、この神様は不思議な神様。例えば悪いことをしても、心から改まって、詫びれば、許してやりたいのが親心じゃとおっしゃる神様。できねからといって、あれがあんなにはずかしがっとる。もうそげんはずかしがらんでよかが、はよ、こっさんこんのと言うて、おかげを下さる神様。ね、詫びるという事同時に、ね、私は今日始めてその、この羞恥心ということが、ほんとに恥ずかしいという気になったら、おかげになるということを、ご祈念に頂いてですね、あたくしは、ほんとにはじめて、あの、このご理解を、いうならば、正面からではなく、理念から頂いておるというかんじ。このようであらなければならないと、い、いつもあたしは言うて解きますけれども、んなら、あらねばならんと解いておるあたくし自身が、人のいびきが聞こえるくらいのあたくしではないかと。それでもやはり一心が届きよらんけれども、神様おかげを下さっておるではないか。ね、それは親神様なればこそですけれどもです、ね、そこに詫びるということの、いわば、あー、本質とね、夕べは申しましたですね。お詫びの本質。というところに基づいてのお詫び。に恥ずかしい事だと、いうその羞恥心。ね、それをですね、あたくしは神様の前に赤裸々にね、述べさせていただいて、ね、ほんとに、えー、槍先で後ろから突付かれるようなことがあったら、すぐ振り向くほどしのわたくし。物音や、者声のことぐらいじゃありません。人がちょっと囁きよっても、それが(みみるぐらいの?)わたくし。というところにです、ひとつ、ほんとうに羞恥心をおぼえるぐらいな純真さをもってね、神様に向かわせていただく、おかげを頂きたい。そして明日の祈願祭に望みたいと今朝からそんな事を、感じさせて頂いており、
はー、今まで羞恥心ということなど、のことについては、頂いたこともなかった。ここで改めて、自分の恥ずかしい内容というものを、一つ検討しなければならない。そしてそれがお詫びになってこなければならない。そこにはたとえば、ね、先ほど申しました、そういう括弧たるものは出来ていなくても、ね、たとえば槍先でつかれて後ろを振り向くぐらいのわたくし。者声が聞こえるぐらいのわたくしですけれども、ね、神様はね、そう、教えながらもです、そんなことじゃおかげはやらんとおっしゃる神様ではなくて、それでもやはり、わびるこころがあれば、やはりおかげを下さる神様であるという事を、改めて認識させていただかねばならんと思いますね。(ありがとうございました?)